【第43回-1】
有限会社エム・ケイ・ニュース社 代表取締役 益永研 様
今回から6回に渡りまして、先物情報誌でおなじみのエム・ケイ・ニュース社代表取締役 益永研様に商品先物取引業界について大いに語っていただきます。益永様は商品取引員で営業職を経験された後、記者活動をされ独立されています。商品先物取引業の過去、現在、そして将来についてお話をしていただきます。耳の痛いお話もあるかと思いますが、そこは商品先物取引を愛されている益永様ですから、是非とも業界に対する期待と受け止めてお聞きいただければと存じます。ご期待下さい。 |
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| オーテック | ―御社の特色などを、お聞かせください。 |
| 益永様 | 昭和51年に大学を卒業して協栄物産に入社しました。当初は新聞・報道関係に進み記者活動をしたかったのですが、「土の香りのする総合商社」というキャッチフレーズに引かれて、商品先物取引業とは知らずに協栄物産に入社しました。実際は商品先物取引のブローカーだったんですね。一般営業で広島・名古屋・東京と各地で営業活動を行いましたが非常にいい経験が出来たと思っています。 入社当初は電話勧誘と戸別訪問を一日に100~200件ずつこなしていました。それでもアポが取れるのは1日1件程度で、非常に厳しい世界だなと感じていました。しかし、商品先物取引を知らない人に商品先物取引の様々な機能をお話し、ご理解を頂いて取引に参加してもらうことに喜びを感じていました。 銀行預金しか知らない人に商品先物取引の機能や魅力を知ってもらい、結果はともあれ取引に参加してもらうのは嬉しかったですね。また、株式取引の経験者の方には逆に教えてもらうことも多くて楽しかったことを覚えています。結局26歳ぐらいまで一般営業を行い、その後は協栄物産を辞するまで法人営業を行っていました。法人営業では味噌や豆腐を扱う業者や商社が営業の相手先でした。リスクヘッジの重要性や採算が合うときに市場から現物を受ける手段があることなどをお客様に話し、そして理解をしてもらって注文を受けていました。大豆を現受けしてトラックに山積みして横浜の港から長野県まで運んだこともありました。懐かしい思い出です。 転機は29歳のときでした。どの世界にも親分子分の関係はあると思うのですが、最初に配属された広島支店の支店長が同業他社に行くとのことで誘われたのですが、それはお断りして支店長が辞めるときに同時に辞表を出しました。気分的には親分が辞するというので一緒に辞した次第です(笑) そして、大学卒業時に考えていた記者の道に進むべく活動をしました。ところが不思議なもので記者活動を始めようとした時も縁があったのは商品先物取引業界でした。商品取引業界紙と知らずに受けた出版社の社長が大学時代の同級生だったのです。同級生というのも縁ですが、商品先物取引業界からは離れられないと実感しましたね。 そこに入社して1週間後には主務省に取材に出掛けたのですが、対応した監査官が商品取引の営業職のことをぼろ糞に言うんです。その時に感じたのは、「営業職というのは営業活動もさることながら、全く商品先物取引を知らない一般の方に知らしめるという啓蒙活動も行っている。本来、啓蒙活動は取引所や行政も一緒に行うはずなのに、悪の部分しか見ない上に、規制で営業活動を雁字搦めにするとはけしからん」と言うことでした。次回は、さらに当時の営業についてお話いたしましょう。 |
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